2015年1月25日日曜日

本日のサイエンスオチ

ロボットで新しい産業革命?政府が新戦略を決定

【宇宙】天の川銀河の中心部に、宇宙船が通行可能な巨大ワームホールが存在する可能性


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

本日のネタオチ

世界的エコノミストの日銀審議委員ですから無い池田信夫さん「黒田総裁の「敗北宣言」で日銀は白川時代に戻った!」とリフレ派への一方的大勝利宣言と勝手に日銀の政策を決める総裁宣言

「信頼される新聞」と朝日新聞の社説

【話題】 「クソコラグランプリ」の次は「イスラム国ごっこ」なる遊びが流行りだしている (画像あり)


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

本日の健康オチ

人生は決定されてる、そこに自由意思はない

よく自由意志を否定する奴が宗教やスピリチュアルを否定する奴だったりするけど、笑ってしまう。
唯物論者を自認するなら、自由意志は否定されなければならない。
コンピューターと同じで人間の行動など神経を流れる電気と外界の刺激への反応と遺伝的条件付けによる機械反応だろう。
ある人が有田ヨシフを好きになるのも、在特会に入るのも、アメーバーが左に進むか右に進むかという問題と実は変わらない。
自由意志を持った私など錯覚にすぎない。
全てがそうしたいわゆる偶然の蓄積で成立しているなら、それは決定論と言い換えても良い。
なにしろ、コントロールできないのだから。
福島原発の放射能漏れ事故は避ける事が出来たか?結局それは必然だったということだ。


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

本日のリーベンオチ

【ISIS】「拉致邦人への軍事的救出を推進するアベシンゾーは戦後もっとも危険な首相」湯川遥菜さん個人情報を執拗にテロリストへご注進した有田芳生先生が良心的発言

【ISIS】「アベシンゾー死ね」連呼する壊れたテープレコーダー池内さおり女史 特定秘密保護法に基づき「ゴンゴドウダン」ツイートを緊急削除

【イスラム国殺害】「政府は一体何をやっていたのか」「どういう経緯で殺害されたか国民に明らかにしてほしい」民主党、26日の国会で追及の構え

民主党は人質が殺されて嬉しくて仕方ないですね。

【速報】国防軍創設・9条改正! 改憲へ重要項目選定 自民着手 26日の国会で改憲論議

その前に治安維持法の復活と、公安調査庁と自治警の公安部を統合した国家保安警察の創設が必要だ。
売国奴に言論の自由や人権などいらないだろう。これらの水準はロシア並でいい。

【イスラム国】日本共産党・池内さおり氏 「こんなにも許せないと心の底から思った政権はない。国の内外で命を軽んじ続ける安倍政権。安倍政権の存続こそ、言語道断」

おい、9条バリア効かなかったぞ?プゲラ。殺し合いや戦争は楽しいよなぁ。ケケケ。戦争がないから国民から緊張感が失われ、ニートとか生まれるんだよ。左翼のクソどもは死ねよ。


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

本日の国際情勢オチ

国民の不満から注意をそらすには戦争がいちばん ロシアがウクライナで停戦を破った 大攻勢の予兆か?


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

本日の相場・経済オチ

首都圏の中古マンション価格3年ぶり上昇

女の97%「年収600万以下は人間じゃない。」

朝香先生1月24日発売のBigtomorrowに登場

あの商品先物取引の営業電話が帰ってくる、勧誘規制の緩和で

日本の商品先物会社も商品先物市場もコンプラ強化で取引が薄くなって機能していません。
なにしろ新規開拓営業できないのですから。
ですから、業界全体にとっては朗報。
あと、岡本教祖様のプロスペクト、TOBが成功したらこの材料だけでイナゴタワー3が建つかも。


死んだ父が理系出身だったので、わしを理科好きにするためにクリスマスのプレゼントに買い与えられたのですが、わしは全然これに興味を示さず、むしろ妹がこれを使って毎日色々作って遊んでいました。
そのせいかわかりませんが、妹は中学時代から電気いじりが大好きで、日本橋に親父と行っては色々部品を買ってきては真空管アンプなどを作り、国立大学の工学部電気科に現役で入ることができました。
先日復刻版が販売されているのを見つけて、ああそういえばこれ妹が大好きだったなぁと思い出しました。
小学校高学年から中学生お子さんを理系好きにするのにいいおもちゃだと思います。

↓この読者レビューが秀逸
量子論は、ニュートン以来の古典理論と異なり相反するレベルの存在を許す。, 2015/1/17

著者は、インド出身の量子物理学者でありヒンドゥーの教えを知悉している。
プルシャ(可能性領域=無形領域=無時間=過去・現在・未来の同時存在=確率的)及びプラクリティ(あらゆる事物に展開できる可能性=物理的原理=時間・空間の領域)である。
それは、仏教(禅)とも通底する。
無形領域は、「空」、「空性」でありこの二つの関係性を縁起(原因と結果の相関性)という。
ニュートン的思考では、その物体の一つの側面しか見ることができないが無形領域を視野に入れると多くの側面を同時に処理することができる。
公案に、「隻手の声」というのがある。一方の手は、無形領域にある。
道元は、「一方を証するときは一方はくらし」といった。
無形領域は、隠れているが私たちが「観察する」(=対象化する)とき事物が粒子として場所が特定される。「収束」して顕れる。空色同時現成である。
「波」は、拡がることができ同時に二つ以上の場所に存在することが可能である。
「粒子」は、一つの定まった場所(時空)に存在する。
「波」は、無形領域に存在しそこは時間・空間がなく過去・現在・未来が同時存在する。
「粒子」(=物質)は、現実の世界で時間・空間・経過する時間の物理的原理が支配している。
無形領域に於けるコミュニケーションは、媒介物を必要としない。非局所性(=前後の関連性がない)であり瞬時に起きる。その領域は、ワンネス(=一)である。
ニュートン的思考とは異なり量子論・禅は、二つの相反するレベルの存在を許す(=双対性)。
量子的跳躍と「悟り」は似ている。
そこに至るには、一方でフォーカスし同時に直観・感覚が開かれている必要がある。
ものごとが連続して見えるのは、私たちの「予測の産物」にすぎない。
私たちの時間・認識・記憶も、ニュートン的思考の産物である。
生命は、無限の可能性領域(=無形領域)から自己創出(オートポイエーシス)により生まれた。
同時に生まれた環境(非生命)は、それを持たなかった。ワンネスは、経験するためそこから分離してこの世を創った。
生命(含む単細胞)誕生以前は、可能性領域のみで時間・空間はなかった。
なので、生命誕生以前(ビッグバン以降)の歴史(時間・空間)は後付けで作られた。ビッグバン以降がなければ生命誕生は有り得ないからである。マイクロ波背景輻射は、ビッグバンの記憶といえ私たちはそれを見ることができる。
生命は、無形領域と物理的世界を繋いでいる。
ニュートン物理学では、月はいつでも具体物として存在しているが量子物理学では、毎瞬毎瞬月は存在しているわけではなくその可能性だけがある。「観察」しないと「収束」しないのである。私たちは、無形領域を出たり入ったりしている。ただ、現実が記憶・予測と余りにも近いので連続しているように見えるのである。だが、何もかも常に変化しているのだ。
ゴスワミ博士は、無我の境地を「量子的自己」と名付けている。
ダイナミックで固定化されていない<わたし>である。それが何であるかは定義できない。
創造的・非連続的・共時的・総合的・ノンローカル・トランスパーソナルで循環する階層である。参考までに、日常のわたしは、論理的・連続的・決定論的・線形的、ローカル・個人で単純な階層である。
「感情」は、思考のなかの観念や思い込みの影響即ち脳によって「五感による感覚」に意味づけされたものである。五感+意味(思考)の産物なので元々の純粋な五感感覚に敏感でなければならない。
「感情」にもビッグバンののような歴史がある。それは、時間を遡って「収束」したものである。
盛り沢山であり、この辺りで止める。
私たちは、ニュートン的世界観の中に住んでいる。
僅かに、仏教(禅)が「空」、「空性」をいうが禅は、説明を嫌う。
なのでそれは、理屈ではなくなんとなくわかるレベルにすぎない。
ゴスワミ博士の、「空」「色」の関係を「量子論における波でもあり粒子でもある」という説明は、極めて論理的で腑に落ちる。
理論は、進歩しても古人の直観は確かそうだ。

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